top of page
タイトル.png

阿弥陀如来と二十五菩薩

即成院と阿弥陀如来・二十五菩薩の由来

即成院は京都宇治の平等院を築かれた藤原頼通公の第三子で橋俊綱という方が祈願主です。
この方は当時一世を風際した風流人で、また平安時代を代表する文化人でもありましたが、何よりもお父様が築かれた宇治の平等院さまのあの極楽の世界を、ご自身は父を超え、もっと素晴らしい極楽の世界を創り上げ、先ずは現世において極楽な時間や極楽な場所を沢山いただけますようにと現世利益を強く求めています。
同時に、与えられた寿命が尽き、人生
の終わりを迎えた時には、苦しまずに、長患いせずに、速やかに天命をいただき、来世もまた多くの仏さまによってお迎えをいただき、お净土に誘っていただきたいと願い、即成院のご本尊阿弥陀如来像と二十五菩薩像を平等院の対岸へ一千年近く前に揃えておられます。そしてその後、明治の廃仏毀釈の難を逃れて、お寺と仏さまは現在の京都東山に安住の地を移しています。

阿弥陀さまが二十五菩薩さまを従えて、極楽より現世に来迎されるお姿を、等身大の仏像坐像として、平安時代より立体的に現存して残していますのは即成院だけで、本堂内陣は、この世の中でも唯極楽を感じられる場所で、『現世極楽浄土』と呼ばれる特別な称号をいただく空間です。
今、この特別な場所において、現世利益を求め、最高の仏縁をいただこうと多くの起業人が集います。上場祈願、株価上昇祈願、商品のヒット祈願、経営拡大祈願、昇進祈願等々、大きな成功を願い、大願成就・願いが的への即成院一千年の祈り特別御祈祷を受けに来られます。
また、即成院で祈願をし、仏さまのおかげをいただき、成功をおさめた方々が感謝の証として、そのいただいた功績を称え、即成院境内地に祈念之塔や祈念之碑等を建立奉納されたり、本堂内陣内に永代嗣堂の御位牌を奉納されたりと、現世来世と続く更なる繁栄を祈る善行を積む方が沢山おられます即成院の仏さまは国の重要文化財に指定されていますが、特に平安時代より、修復の手を一切いれていないそのままの仏様が半数近くあり、これらの仏さまは次の国宝、国宝の予備軍と呼ばれています。

そして、即成院の仏さまは極楽がいかに楽しくて素晴らしいところであるかということを表現されていますが、その多くの仏さまが手に楽器を持っておられるところから、仏さまのオーケストラとも呼ばれ、内陣には洋楽、和楽を問わず、さまざまなジャンルの音楽家、演奏家が集い、ご自分の音楽を仏さまに御供えする奉納演奏を希望する方が後を絶ちません。これは、仏さまのお身体が寄木造りという工法で造られており、胎内が空洞となって、音楽やお経、声明(しようみよう)などの様々な音が、お身体の中にまで入り込んで、より共鳴するようにと、考えられて彫られた特別な仏さまだからです。
よって、堂内は最高の演奏ステージにもなり、最高の録音スタジオにもなるといわれています。即成院の内陣で音楽や舞や芸能を奉納することは演者にとって最高の誉れとなることなのです。尚、即成院の仏さまは、近年の研究から仏師定朝が自身の工房に於いて、弟子にその腕をふるいながら造り始められた。と、考えられており、仏師定朝とその弟子達による合作であるといわれています。

また、即成院は源義経に仕えた弓の名手、那須与一ゆかりの寺としても知られています。平家物語・源平の戦い、屋島の合戦の際、平家が掲げた船上の扇の的をたった一本の矢で見事に射止めた武勲はあまりにも有名です。与一は合戦の前、京都での療養中、即成院の阿弥院如来を信仰し、その霊験で病が癒えたことから、阿弥陀如来の仏徳を感じ、合戦後、源平の戦いで亡くなった人々の菩提を弔う為に出家し、即成院に庵を結んで没しています。現在は与一じたいも神仏化された存在で、与一のように願いが的に一発で命中しますよう『願いが的へ』と祈願される方々が絶えません。高さ約3メートルもある与一のお墓(石塔宝塔)は、平安時代の終わりに造られたもので、墓石は当時、与一が活躍された四国香川県の坂出という石の産地からその時代に取り寄せられたものです。

二十五菩薩さまの極楽来迎配置図と由来

bottom of page